俵孝太郎さんの再婚について調べていて、答えらしい答えが出てこなくて戸惑っていませんか。
実は「再婚」を正面から扱った記事は一本だけ存在していて、しかもその中身は今も自由には読めない状態にあります。
ここでは確認できる記録だけを順番に並べて、どこまでが分かっていて、どこからが分かっていないのかを整理していきますね。
・俵孝太郎の再婚が本人から公表されていないこと
・1973年の週刊文春が「再婚の相手」として何を伝えていたのか
・元妻の俵萠子との16年間と、離婚後に家族がどうなったのか
俵孝太郎の再婚は公表されておらず記録は1本だけ
俵孝太郎さんの再婚は、本人の口からも所属先からも語られていません。
ただ、まったく手がかりがないわけではないんです。50年以上前の週刊誌に、たった一本だけ記録が残っています。
再婚したという本人からの発表はない
まず前提から整理させてください。
俵孝太郎さんが再婚したかどうかについて、本人が公の場で明かした記録は確認できません。
Wikipediaの親族欄に並んでいるのも、大叔父にあたる冶金学者の俵国一さん、祖父で濱口内閣の商工大臣を務めた俵孫一さん、そして元妻の俵萠子さんまでです。
現在の配偶者にあたる人の名前は、そこには出てきません。
2025年1月に亡くなった際の訃報も同じでした。
NHK・産経新聞・日本経済新聞・東京新聞などが相次いで報じていますが、確認できた範囲では 配偶者についての記載はどこにもなく、喪主を務めたのは長男の陽一さん です。
つまり「再婚した」も「していない」も、公表された情報としては存在しないというのが正確なところです。
ネット上では「俵孝太郎 再婚」という検索候補が出てくること自体を面白がる投稿もあって、2021年には91歳での再婚かと冗談まじりに書かれたX(旧Twitter)の投稿まで残っています。
それくらい、答えが見つからないキーワードなんですよね。
週刊文春が1973年に「再婚の相手」を報じていた
ここからが本題です。
国立国会図書館の書誌データベースをたどると、週刊文春 1973年(昭和48年)2月12日号(15巻6号・通巻712号)の30〜32ページ に、俵孝太郎さんの再婚を扱った記事が収録されていることが分かります。
目次に並んでいる見出しは、離婚したばかりの俵孝太郎氏が早手回しに再婚する、という趣旨のものです。
さらに、おしどり評論家の離婚劇の第二幕に登場した相手、という副題まで付いています。
おしどり評論家というのは、当時そろって評論活動をしていた孝太郎さんと萠子さんの夫婦を指した言い方ですね。
その離婚の直後に、続きがあったという書き方です。
再婚の話が世に出たのは、離婚から間を置かない1973年の初めだったことになります。
ちなみに同じ号には那須の土地バブルを追った記事やジャクリーン・オナシスの記事も載っていて、いかにも当時の週刊誌という誌面構成でした。
記事の本文は国立国会図書館の館内限定公開
ここが少しもどかしいところです。
この号は国立国会図書館デジタルコレクションでデジタル化されているのですが、オンライン閲覧の公開範囲は国立国会図書館内限定 と設定されています。
図書館・個人送信サービスの対象外なので、自宅のパソコンから中身を読むことはできません。
つまり、記事があったという事実は誰でも確認できるのに、何がどう書かれていたかは館内に足を運ばないと分からない状態なんです。
検索しても答えが出てこない理由の半分は、ここにあります。
相手として記されたのは早大出の法学士
目次から読み取れる相手の情報は、ひとつだけです。
早稲田大学出身の法学士の女性 という、肩書だけの記述になっています。
当時の週刊誌らしく美人法学士という形容が添えられてはいますが、名前も年齢も、出身地も職業も書かれていません。
1973年当時、女性で法学士というのはまだ珍しい経歴でした。
俵孝太郎さんは東京大学文学部倫理学科の卒業で、産経新聞の政治部記者から論説委員へ進んだ人です。
担当は社会党や総理官邸、大蔵省、外務省、法務省と広く、法曹や官庁を回る機会の多い仕事でした。
そうした線での縁だった可能性は考えられますが、これはあくまで経歴から組み立てた推測にすぎません。
相手が誰だったのかを示す資料は、目次の一行以外に見つからないというのが現状です。
元妻・俵萠子は産経新聞の同僚だった
再婚の話に入る前に、最初の結婚についても押さえておきましょう。
元妻の俵萠子さんは、1930年12月7日に大阪市で生まれた評論家・エッセイストです。
本名は中野萌子さんで、父は建築家の中野順次郎さんでした。
大阪府立大手前高等学校から大阪外国語大学フランス語学科へ進み、戦後初の4年制大学卒の女性記者 として産業経済新聞社に入社しています。
大阪文化部にいた時期には、のちの作家・司馬遼太郎さんと机を並べていたそうですよ。
孝太郎さんは1930年11月12日生まれ、萠子さんは同じ年の12月7日生まれ。
ふたりは同い年で、同じ会社の同僚でした。
ふたりの経歴を並べて比べる
似た道を歩みながら、進む方向は途中で大きく分かれていきます。
| 項目 | 俵孝太郎 | 俵萠子 |
|---|---|---|
| 生年月日 | 1930年11月12日 | 1930年12月7日 |
| 出身 | 東京府 | 大阪府大阪市 |
| 最終学歴 | 東京大学文学部倫理学科 | 大阪外国語大学フランス語学科 |
| 産経入社 | 1953年4月 | 戦後まもなく(女性記者第1号) |
| 退社 | 1969年8月 | 1965年 |
| その後 | ニュースキャスター・政治評論家 | 評論家・エッセイスト |
| 論調 | 保守派の論客 | 女性の権利尊重・住民参加を主張 |
同じ編集局の空気を吸ったふたりが、のちに真逆と言っていい論陣を張るようになったわけです。
……なんだか、それだけで一本の物語みたいですよね。
16年の結婚生活のあと離婚している
結婚生活の長さについては、萠子さん本人が語った記録が残っています。
雑誌クロワッサンの1978年11月10日号に載った離婚をテーマにした特集で、萠子さんは離婚経験者として談話を寄せていました。
そこで示されているのが 16年の結婚生活ののちの離婚 という事実です。
この談話で萠子さんは、収入は夫より自分のほうが多かったこと、そして結婚前から自立を考えていたことを率直に語っています。
だから離婚したからといって新しい人生計画を立て直す必要はなかった、という趣旨でした。
さばさばした語り口が、なんとも萠子さんらしいですよね。
離婚の時期についても、手がかりを重ねると輪郭が見えてきます。
週刊文春が1973年2月の時点で離婚したばかりと書いていることから、離婚が成立したのは1972年の終わりから1973年の初めにかけてと考えるのが自然です。
ただし正確な日付を記した資料は見当たらないため、ここは時系列からの推測にとどめておきます。
離婚後も萠子は俵の名字を使い続けた
離婚のあとの名字の扱いも、少し変わっています。
萠子さんは 戸籍上は旧姓の中野に戻しながら、筆名としては俵を使い続けました。
評論家として名前が世に知られたあとでしたから、仕事の上での通り名は変えなかったということですね。
そのため、離婚後も長いあいだ俵萠子として本を出し、テレビに出て、選挙にも出ています。
1977年の参議院選挙に東京都選挙区から立候補して32万票あまりを集めたのも、1981年から1985年まで中野区の教育委員を務めたのも、すべて俵の名義でした。
この名字の重なりが、離婚したこと自体を知らない読者を生む一因になったとも考えられます。
同じ名字で活動を続けていたのは、離婚後も最後まで変わらなかったというのがここでの答えです。
1男1女は萠子が引き取って育てた
ふたりのあいだには 1男1女 が生まれています。
長男が陽一さんで、長女もいますが、こちらは名前が公表されていません。
離婚後、子どもたちを引き取って育てたのは萠子さんのほうでした。
先に触れたクロワッサンの談話で、萠子さんは子どもについても独特の言い方をしています。
子どもは一時預かりのようなもので、人はしょせん一人だ、という趣旨の言葉でした。
突き放しているように聞こえるかもしれませんが、子どもを引き取って働きながら育てた人の言葉だと思うと、響き方が変わってきませんか。
萠子さんはその後、1986年から陶芸を始め、1995年には群馬県の赤城山に自分の美術館を開いています。
65歳で乳がんを経験し、2001年には乳房を失った女性たちが一緒に温泉に入る会を立ち上げて会長を務めました。
2008年11月27日、肺炎のため77歳で亡くなっています。
晩年に出した老老介護の本に残る家族の影
孝太郎さんの著書にも、家庭の話は登場します。
1999年9月に文春新書から出した『どこまで続くヌカルミぞ 老老介護奮戦記』は、超高齢の両親を介護した日々を綴った一冊です。
出版社の紹介文によれば、美談ではなくカネの話や兄弟の相克まで率直に書いた本で、口は出すが金は出さない妹、嫁イビリといった生々しい言葉が並んでいます。
ここで嫁という語が出てくることをどう読むかは、意見が分かれるところだと思います。
ただ、この紹介文だけを根拠に再婚の有無を判断することはできません。
本文を読まずに結論を出すのは、さすがに乱暴ですからね。
俵孝太郎の再婚を調べる人向けの関連情報
再婚を検索した人が続けて調べているのは、家族の顔ぶれと晩年の様子です。
息子や娘のこと、亡くなった経緯、そして名字が同じ有名人との関係まで、まとめて確認していきましょう。
息子・陽一が葬儀の喪主を務めた
長男の陽一さんは、2025年の葬儀で喪主を務めています。
日本経済新聞のおくやみ欄には、葬儀は家族で行われ、喪主は長男の陽一氏と記されていました。
陽一さん自身の職業や年齢は公表されていません。
メディアに顔を出すタイプの人ではないようです。
父の最期を見送ったのが、萠子さんが引き取って育てた長男だったという事実は、この記事の中でもとくに印象に残る部分です。
娘についてはほとんど公表されていない
長女についての情報は、さらに限られます。
名前も生年も職業も明かされておらず、確認できるのは1男1女という家族構成の記述だけです。
個人ブログの中には、長女が結婚して家庭を持ち、孝太郎さんが孫との時間を楽しんでいたと書いているものもあります。
ただ、これらは出典が示されていない記述で、複数の資料では裏が取れませんでした。
長女については、一般の方として名前が伏せられていると考えるのが妥当です。
現在は2025年1月1日に亡くなっている
俵孝太郎さんの現在を検索する人も多いのですが、こちらははっきりした答えがあります。
2025年1月1日、東京都内で死去。94歳でした。
訃報が世に出たのは同じ月の25日から27日にかけてで、北國新聞が25日に、NHKと産経新聞が27日に報じています。
亡くなってから報道まで3週間以上あいたのは、葬儀を家族だけで済ませていたためとみられます。
テレビでの活動は1987年3月にフジテレビのキャスターを降りたあとも続きましたが、2011年以降は目立った露出がなくなりました。
それでも筆は止めていません。
亡くなる前年まで、月刊『時評』の連載と、北國新聞社の『月刊北國アクタス』の連載を持ち続けていました。
90歳を超えてなお現役の書き手だった、というのが晩年の姿です。
死因は肺がんだった
死因は 肺がん と報じられています。
闘病についての詳しい経緯や、いつ診断を受けたのかは公表されていません。
本人が病気について公の場で語ることもありませんでした。
連載を最後まで続けていたことを思うと、体調を抱えながら原稿を書いていた時期があったのかもしれませんね。
歌人の俵万智との血縁は確認できない
名字が同じなので気になる方が多いようです。
歌人の俵万智さんは1962年生まれで『サラダ記念日』で知られる人ですが、孝太郎さんとの血縁を示す記録は見当たりません。
孝太郎さんのほうの親族として名前が挙がっているのは、祖父の俵孫一さんと大叔父の俵国一さんです。
どちらの資料にも、互いの家系がつながるという記述はありませんでした。
同姓というだけで、親子でも親戚でもないとみるのが自然です。
小泉孝太郎の名前の由来になった
これは知ると少し驚く話かもしれません。
俳優の 小泉孝太郎さんの名前は、俵孝太郎さんの名前から取られたもの です。
背景には祖父どうしの付き合いがあります。
孝太郎さんの祖父・俵孫一さんと、小泉純一郎さんの祖父・小泉又次郎さんは、政治の上でも私生活でも盟友と呼べる間柄でした。
又次郎さんは俵家を訪ねると玄関から茶の間へ直行し、押し入れにある自分専用の浴衣に着替えて、風呂に入ったり座敷で昼寝をしたりしていたそうです。
客と会っている孫一さんには構わず、祖母に食事を頼むこともあったといいます。
……もはや自分の家ですよね、これ。
その光景を子どものころから見ていた孝太郎さんは、のちに小泉純一郎さんへ、自分のほうがよほどお祖父さんの背中を見ているかもしれない、という意味のことを言ったと語っています。
純一郎さんは苦笑していたそうですよ。
名前をもらった小泉孝太郎さんとは、2001年のサントリー「ダイエット生」のCMで共演もしています。
祖父の代からの縁が、名前とCMという形で二度つながったことになります。
俵孝太郎の再婚のまとめ
- 俵孝太郎が再婚したかどうかを本人が公表した記録はない
- 2025年の訃報でも配偶者についての記載は確認できない
- 週刊文春1973年2月12日号に再婚の相手を扱った記事が収録されている
- 掲載ページは30〜32ページで、通巻712号にあたる
- 記事の見出しでは相手が早大出の法学士とされている
- 相手の名前・年齢・職業は目次からは分からない
- 同号は国立国会図書館内限定公開で、本文をネットで読むことはできない
- 元妻は評論家の俵萠子で、産経新聞の同僚だった
- 孝太郎と萠子は1930年生まれの同い年
- 結婚生活は16年続き、その後に離婚している
- 離婚は1972年末から1973年初めごろとみられる
- 萠子は戸籍を旧姓の中野に戻しつつ筆名は俵を使い続けた
- 1男1女は離婚後に萠子が引き取って育てた
- 長男の陽一が2025年の葬儀で喪主を務めた
- 孝太郎は2025年1月1日に肺がんのため94歳で死去した

