1970年の「男と女のお話」で、どこか投げやりな独特の歌い方が一世を風靡した歌手・日吉ミミさん。
その日吉ミミさんの結婚について調べると、夫の名前は出てくるのに、いつ結婚したのかがどこにも書かれていません。
芸能人の結婚としては珍しく、日吉ミミさんの結婚は「発表」というかたちを取っていないためです。それでも、確認できる事実をたどると、夫がどんな人で、最期までどう寄り添ったのかははっきり見えてきます。
・日吉ミミさんの結婚相手が誰で、何をしていた人なのか
・入籍時期や馴れ初めが公表されていない理由
・膵臓がんの闘病と、夫が喪主を務めた最期のかたち
日吉ミミの結婚相手は所属事務所の社長・黒岩慶三さん|入籍時期は非公表
まず、確認できるところから整理します。
日吉ミミさんの結婚相手は、黒岩慶三(くろいわ けいぞう)さんです。日吉ミミさんが所属していた事務所の社長を務めていた人物で、亡くなるまで夫婦でした。
一方で、結婚した年も、二人がどう出会ったのかも公表されていません。ここからは、分かっている事実と分かっていない事実を切り分けながら見ていきます。
結婚相手は所属事務所の社長を務めていた黒岩慶三さん
日吉ミミさんの夫は、芸能界の表に出る人ではありませんでした。歌手でも俳優でもなく、日吉ミミさんが所属していた事務所を経営していた側の人です。
つまり、仕事の上では「社長と所属歌手」という関係にあたります。日吉ミミさんの活動を最も近くで組み立てていた人が、そのまま生活のパートナーでもあったということになります。
報道で慶三さんの名前が表に出たのは、日吉ミミさんが亡くなったときの喪主としてでした。それまで、夫としてメディアに登場することはほとんどありませんでした。
本名は「小池和子」から「黒岩和子」に変わっている
日吉ミミさんの本名は黒岩和子(くろいわ かずこ)さんです。ただし、生まれたときの姓は「小池」で、出生名は小池和子さんでした。
この「小池」から「黒岩」への変化が、結婚を裏づける数少ない手がかりになっています。夫の姓が黒岩ですから、結婚によって姓が変わったと考えるのが自然です。
訃報で「本名・黒岩和子」と伝えられたことで、多くの人が「日吉ミミさんは結婚していたのか」と初めて知る形になりました。芸名で活動する歌手にとって、本名が世に出るのは訃報のときだけ、ということも珍しくありません。
結婚した時期は公表されていない
日吉ミミさんが何年に結婚したのかは、公表されていません。結婚会見も、雑誌での発表も確認できません。
芸能人の結婚は本来、報道されて記録に残るものです。それが残っていないということは、意図的に出さなかったか、あるいは当時のメディアが取り上げるほどの話題として扱わなかったかのどちらかです。
日吉ミミさんの場合、ヒット曲の絶頂期を過ぎた後も、テレビのバラエティや地方キャンペーンで長く働き続けた人でした。「結婚しました」と大きく打ち出すよりも、生活と仕事を静かに並走させるほうを選んだ人だった、と見ることもできます。
馴れ初めも語られていない|分かっているのは仕事上の関係だけ
二人がどこで出会い、どちらから近づいたのかというエピソードも残っていません。
唯一はっきりしているのは、慶三さんが事務所の経営者だったという事実です。歌手と所属事務所の社長という関係が先にあったのか、結婚を機に慶三さんが事務所を担うようになったのかまでは、公開されている情報からは判断できません。
本人がインタビューで夫について語った記録も、ほとんど見つかりません。ステージでは私生活をネタにすることも少なく、歌の世界と自分の生活を切り離していた人でした。
子供に関する情報も公表されていない
日吉ミミさんに子供がいたかどうかも、公表されていません。
訃報でも家族構成には触れられておらず、喪主が夫の慶三さんであったこと以外、遺族についての情報は出ていません。子供がいたという報道も、いなかったという報道も確認できないため、この点は「不明」というのが正確なところです。
結婚・馴れ初め・子供という、芸能人なら記事になりやすい三つがすべて出てこない。これは情報が失われたというより、最初から出さない方針だったことをうかがわせます。
膵臓がんの闘病を、夫が最も近くで支えた
日吉ミミさんは2009年5月に膵臓がんの手術を受けています。8時間におよぶ大手術でした。
手術後も二週間に一度の検査と抗がん剤の投与を続けながら、同じ年のうちに舞台へ復帰しています。2010年5月31日、新曲『いのちのしずく』のキャンペーンで名古屋を訪れた際に、自ら病気を公表しました。
この間、事務所の社長でもある夫が、治療のスケジュールと仕事のスケジュールを両方抱えていたことになります。歌い続けたいという本人の意志を、現実の仕事として成立させられる立場にいたのが夫だった、という点は見逃せません。
喪主は夫の慶三さん|葬儀は近親者のみで行われた
膵臓がんの3年生存率を越えた矢先の2011年6月、体調不良で再入院します。デビュー45周年の記念曲の構想にも取りかかっていた時期でした。
2011年8月10日、日吉ミミさんは膵臓がんのため東京都内の病院で亡くなりました。64歳でした。
葬儀・告別式は本人の遺志により近親者のみで執り行われ、喪主は夫の慶三さんが務めています。大規模なお別れの会も開かれませんでした。結婚を発表しなかったことと、最期を身内だけで見送ったことは、同じ姿勢の表れだったと言えます。
日吉ミミはどんな歌手だったのか|デビューから晩年までの歩み
結婚の話が表に出なかったぶん、日吉ミミさんの人生は歌の記録として残っています。
売れない時期、改名、大ヒット、バラエティ、そして闘病。ここからは歌手としての歩みをたどります。
1947年埼玉県浦和市生まれ|「池和子」名義のデビューは売れなかった
日吉ミミさんは1947年7月21日、埼玉県浦和市(現・さいたま市)に生まれました。
1967年、「池和子(いけ かずこ)」の名義でビクターからシングル「涙の艶歌船」でデビューします。しかし初期に出したシングルはヒットに恵まれず、そのままでは消えていく歌手の一人でした。
この売れなかった2年間があったからこそ、後の独特な歌い方が生まれたとも言われます。正統派の歌唱で勝負しても勝てないという現実が、先にあったわけです。
1969年の改名と「男と女のお話」60万枚の大ヒット
1969年11月、芸名を「日吉ミミ」に改めて再スタートを切ります。改名第1作は「おじさまとデート」でした。
そして改名2作目にあたる1970年の「男と女のお話」が大ヒットします。オリコン最高6位、累計売上は60万枚を超えました。同時期の「男と女の数え唄」も話題となり、一気に名前が知れ渡ります。
力を抜いた、どこか突き放したような歌い方。当時の女性歌手の主流とはまったく違うこの声が、逆に強烈な個性として受け入れられました。
紅白初出場は江利チエミさんの辞退で回ってきた枠だったと伝えられる
1970年、日吉ミミさんは第21回NHK紅白歌合戦に初出場します。
この出場をめぐっては、常連だった江利チエミさんが辞退したことで枠が空き、そこに日吉ミミさんが入ったと伝えられています。デビューから3年、しかもその大半が無名だった歌手にとっては、大きな転機でした。
結果として、日吉ミミさんの紅白出場はこの1回だけとなります。一発の大ヒットで駆け上がった歌手が、その後も長く現役でいられるかどうかは、また別の話でした。
寺山修司さん・中島みゆきさんが書いた楽曲と「世迷い言」
日吉ミミさんが面白いのは、ヒット後に選んだ曲の方向です。
1972年から73年にかけては、寺山修司さんが関わった作品を続けて発表し、単なる歌謡曲の枠を超えた世界を作りました。1977年には中島みゆきさんが手がけた「うそつきが好きよ」「命日」が話題になります。
1978年の「世迷い言」は、TBSドラマ『ムー一族』で歌われてヒットしました。歌詞に回文を織り込むという、かなり実験的な作りの曲です。ヒット曲の路線をなぞらず、書き手の強い個性に乗っていくのが日吉ミミさんのやり方でした。
『オレたちひょうきん族』のごっくん娘と、横浜ベイスターズ愛
1980年代に入ると、フジテレビ『オレたちひょうきん族』の「ごっくん娘」コーナーにレギュラー出演し、テレビでの顔として知られるようになります。
歌手としての活動と並行してバラエティで体を張る。ヒット曲の余熱だけで食べていくのではなく、その時々で求められる場所に出ていく人でした。
また、大の野球好きとしても知られ、横浜ベイスターズの私設応援団で副会長を務めていました。1990年には「北風ぴゅうぴゅう」がピップエレキバンのCM曲として使われ、久々に広く名前が知られています。
2008年のデビュー40周年から2011年8月10日まで
2008年、デビュー40周年を記念してシングル「言の葉の夢」を発売します。この時期の検査で膵臓がんが見つかりました。
翌2009年5月に手術を受け、抗がん剤治療を続けながら舞台に戻り、2010年には新曲『いのちのしずく』のキャンペーンで各地を回っています。病気を公表したのもこのときです。
45周年記念曲を構想していた2011年6月に再入院し、同年8月10日に64歳で亡くなりました。最後まで、次に出す歌のことを考えていた歌手でした。
まとめ|日吉ミミの結婚は、発表されないまま最期まで続いた
日吉ミミさんの結婚について、記事の内容を整理します。
・本名は黒岩和子さん。出生名は小池和子で、結婚によって姓が変わったとみられる
・結婚した時期も馴れ初めも公表されておらず、結婚会見などの記録も残っていない
・子供がいたかどうかも公表されていない
・2009年5月の膵臓がん手術後、抗がん剤治療を続けながら舞台へ復帰していた
・2011年8月10日に64歳で死去。喪主は夫の慶三さんで、葬儀は近親者のみで行われた
調べても結婚時期が出てこないのは、情報が消えたからではありません。最初から出さなかったからです。
ヒット曲を出しても、テレビで体を張っても、私生活だけは持ち込まない。その線引きを40年以上守り通した人が、最期に身内だけで見送られたのは筋が通っています。
残っているのは歌のほうです。「男と女のお話」の、あの力の抜けた声だけが、今も変わらず聴けます。

