「男はつらいよ」の車寅次郎として、日本中に顔を知られていた渥美清さん。
でもその渥美さんに娘さんがいたことを、生きているうちに知っていた人はほとんどいませんでした。
亡くなったあとに見つかった手帳には、その娘さんが幼い頃に転んだ日のことが、イラストつきで書き残されていたんです。
・渥美清さんの娘は何人で、いま何をしているのか
・生年も職業も公表されていない理由
・亡くなる前の手帳に残されていた、娘さんへの言葉
渥美清の娘は長女の幸恵で職業は非公表
まずは渥美清さんの娘さんについて、分かっていることと分かっていないことを整理していきますね。
手帳に残されていたエピソードは、正直かなり胸に来ます。
子供は2人で娘は長女にあたる
渥美清さん(本名・田所康雄さん)のお子さんは、長男と長女の2人です。
つまり娘さんは長女がひとりだけ、ということになります。
長男は田所健太郎さんで、1971年7月8日生まれ。
ラジオのディレクターとして働いていた方で、こちらは名前も経歴も広く知られています。
一方の長女は幸恵さん。
Wikipediaの「親族」の項目にも名前は載っているのですが、載っているのは本当に名前だけなんですよ。
渥美さんの子孫を紹介している人物名鑑「昭和ガイド」にも幸恵さんのページはあるものの、書かれているのは「渥美清の娘(長女)にあたる」という一文のみでした。
つまり娘さんについては、存在と名前以外はほとんど何も公になっていないというのが実態です。
| 続柄 | 名前 | 分かっていること |
|---|---|---|
| 妻 | 正子さん(旧姓・竹中) | 画家。神奈川県茅ヶ崎市出身 |
| 長男 | 田所健太郎さん | 1971年7月8日生まれ。フリーのラジオディレクター |
| 長女 | 幸恵さん | 生年・職業ともに公表なし |
長男が生まれたのは渥美清が43歳のとき
渥美さんは1969年3月、41歳のときに結婚しています。
その2年後に長男の健太郎さんが誕生しました。
長女の幸恵さんがいつ生まれたのかは、どの資料にも記載がありません。
「生まれ年から考えると妹のほうだろう」と書いているサイトもありますが、これは根拠の示されていない推測です。
時系列で確かめられる材料が一切ない以上、姉なのか妹なのかも断定はできない、というのが正確なところかなと思います。
名前と読み方はどう伝わっているか
幸恵さんという名前の読み方についても、実ははっきりしていません。
人物名鑑の昭和ガイドでは「たどころゆきえ」と紹介されています。
一方で検索結果の要約などでは「さちえ」と読ませているものもあり、資料によってバラバラなんですね。
どちらが本当なのかを裏づける一次資料は見つかりませんでした。
週刊誌が報じた手帳の記述でも、書かれていたのは漢字の「幸恵」だけです。
読み方についてはご本人が公にしていないため、この記事でも断定は避けておきますね。
生年も職業も公表されていない理由
ここが、渥美清さんという人を語るうえで一番大事なところかもしれません。
渥美さんは私生活を徹底的に隠し通した俳優でした。
理由ははっきりしていて、「渥美清=車寅次郎」というイメージを壊したくなかったからです。
寅さんに生活の匂いがあってはいけない、という考え方だったといわれています。
その徹底ぶりは、正直ちょっと想像を超えていました。
山田洋次監督も、黒柳徹子さんも、親友だった関敬六さんも谷幹一さんも、渥美さんの自宅の場所を知らなかったんです。
知っていたのは松竹の宣伝部にたった1人だけ。
仕事仲間が渥美さんのご家族と初めて顔を合わせたのは、告別式の場でした。
そして家族の側も、この方針にきっちり協力していました。
妻の正子さんはメディアに一切出ませんでしたし、渥美さんが子供の学校行事に顔を出すこともほとんどなかったといわれています。
子供たちには「自分は文章を書く仕事をしている」と伝えていた、という話まで残っているんですよ。
父親が国民的スターだと子供自身が知らされていなかった可能性がある、ということですよね。
結婚していたことも子供がいたことも、世間が知ったのは渥美さんが亡くなったあとでした。
娘さんの生年や職業が出てこないのは、情報が漏れなかったからではなく、そもそも出さない前提で守られてきたからだと考えるほうが自然かなと思います。
手帳に残された幼い頃の思い出とイラスト
ここからが、この記事で一番お伝えしたい部分です。
渥美さんが亡くなったあと、肉筆で書き込まれた手帳の存在が週刊女性で報じられました。
正式な遺書は残されていなかったため、この手帳が事実上の遺書のようなものだった、と記事は伝えています。
その中に、娘さんのことを書いた一節があったんです。
原文はこうでした。
「幼年幸恵が玄関の石だたみでころんでケガした時は本当にびっくりしたな忘れられないよ」
そしてそのあとに、こう続きます。
「今は俺の事でおまえ達がびっくりする番だよ。」
……重いですよね。
自分の病気のことを、娘が転んだ日の驚きと重ね合わせて書いているわけです。
しかもこのメモには、幸恵さんが転ぶ様子を描いたイラストまで添えられていたと報じられています。
死を意識しながら、娘が子供の頃に転んだ場面をわざわざ絵にして残す。
読んでいて、これはもう俳優ではなく完全に父親の顔だなと思いました。
手帳そのものについて分かっていること
報じられた手帳は、手のひらに収まるくらいのこげ茶色の革製ダイアリーでした。
表紙には「1993 TBS」と入っていたそうです。
書き込みがあったのは無地のメモ部分で、その分量は8ページにわたっていました。
冒頭には、1993年1月に入院した「男はつらいよ」のカメラマン・高羽哲夫さんのことが書かれています。
「俺も人ごとじゃないよ近いんだ」「恥ずかしき事ではないが本当はこわい」といった言葉が並び、文字は震えて誤字もあったといいます。
渥美さんががんの告知を受けたのは1991年のことでした。
この手帳については、遺族と親しい映画関係者が存在を認めており、ご遺族は「本人の手帳に間違いない」「あまりに生生しくてまだ字は見られません」と語ったと伝えられています。
ダイアリーの3月10日に書かれていた二文字
もうひとつ、手帳には気になる書き込みがありました。
ダイアリー部分の3月10日の欄に、「幸恵 誕」という文字が記されていたんです。
関係者はこの日について「長男・健太郎さんの誕生日でもある」と語ったと報じられています。
ただ、ここは少し慎重に見ておく必要があります。
健太郎さんの生年月日は1971年7月8日とされていて、3月10日とは一致しないんですね。
そして3月10日は、渥美さん自身の誕生日(1928年3月10日)でもあります。
資料どうしが食い違っているので、この日付が何を意味していたのかは断定できません。
ただ、家族の誕生日をひとつだけ書き入れるなら娘の名前だった、という事実だけは残ります。
代官山の部屋へ通い身の回りを世話
渥美さんは自宅とは別に、代官山にマンションを借りていました。
「勉強部屋」「仕事部屋」と呼ばれていた、ひとりになるための場所です。
撮影のあとはいったんそこへ寄って、家庭人の匂いを消してから寅さんになりきっていた、という見方もされています。
この部屋がまた徹底していて、山田洋次監督いわく「自宅は誰も知らなかったが逆に仕事場はみんな知っていた」。
場所は知られていても、中に入れる人はほとんどいなかったわけです。
ところが、です。
週刊女性が伝えた関係者の証言には、こうあります。
「ほとんど家族も近づけなかった代官山の勉強部屋にも、幸恵さんだけは足繁く通って身の回りの世話をしていましたから」
家族すら立ち入らせなかった部屋に、娘さんだけは通っていたということですよね。
……なんか、いい話だなと思いませんか。
寅さんの世界と家庭をきっちり切り分けていた渥美さんにとって、娘さんだけがその線をまたげる存在だったのかもしれません。
ただしこの証言は関係者の談話がひとつあるだけで、ほかの資料では確認できませんでした。
そこは含んでおいてくださいね。
手帳の最後に書かれた家族へのエール
手帳の白紙部分、その最後のページには家族へのメッセージが書かれていました。
まず旅行のことです。
「伊豆の式根島、ロケ先菊水旅館は7年前に行ったところへ 仕事じゃなくて、ゆっくりしたいな」
「家族とぎょうさんにも……声かけて一緒に行こう。」
「ぎょうさん」は、親交のあった脚本家・早坂暁さんのことではないかと注記されています。
そして最後の一行が、これでした。
「正子健康が一番だぞ 健太郎 幸恵も頑張れ、(康雄)」
渥美清ではなく、本名の康雄として署名しているんですよね。
妻に健康を願い、息子と娘に「頑張れ」と書いて終わっている。
俳優としての言葉ではなく、田所康雄という一人の父親の言葉として残されたものだと思います。
正直、これを読んだときは少し言葉が出ませんでした。
隠し子説や声優という噂は本当か
娘さんの情報が少ないぶん、ネット上ではいろいろな噂も流れています。
代表的なのが、女優の片桐はいりさんが渥美清さんの隠し子ではないか、という話です。
これははっきり否定できます。
片桐はいりさんの本名は片桐由美さんで、渥美さんの本名は田所康雄さん。
親子関係を示す資料はどこにもなく、単なる噂の域を出ません。
もうひとつ、幸恵さんが声優をしていたという説を見かけることもあります。
ただ、こちらも出どころとなる一次資料が見つかりませんでした。
「テレビとは関係のない仕事をしている」と書いているまとめサイトもありますが、根拠は示されていないんですよね。
現状、娘さんの職業について確かなことを言っている資料は存在しません。
一般の方ですし、ここは分からないままにしておくのが筋かなと思います。
渥美清の娘を調べる人向けの関連情報
ここからは、娘さんについて調べている方が一緒に気にされることが多い話題をまとめておきますね。
ご家族のこと、そして渥美さん本人の最期についてです。
子供は何人で息子は何をしている人か
あらためて、渥美清さんの子供は2人です。
長男の田所健太郎さんは、立教高等学校から立教大学経済学部へ進み、大学では放送研究会に所属していました。
1994年4月にニッポン放送へ入社し、編成局制作部のディレクターになります。
そして1999年7月、営業への異動を嫌って退社。
いまはフリーのラジオディレクターとして活動しています。
面白いのが入社時のエピソードです。
入社試験の履歴書の家族欄に、健太郎さんは「父 田所康雄 職業 俳優」と書きました。
本名なので、採用担当者は時代劇の斬られ役をしている大部屋俳優だろうと思っていたそうです。
ところが新入社員の親が仕事を見にくる「父兄参観日」に渥美清さんが現れて、局内は騒然。
同期だった垣花正アナウンサーも、ご両親ともども「寅さん!?」と大変驚いたと語っています。
それでも健太郎さんは、渥美さんの長男であることを社外に公表しませんでした。
放送業界の人が仕事で健太郎さんと会っていても、親族だとは気づかなかったといいます。
健太郎さんが渥美清の息子として表に出たのは、父親が亡くなったあとのことでした。
1996年9月には、亡き父に代わって橋本龍太郎首相から国民栄誉賞を受け取っています。
手がけてきたラジオ番組
健太郎さんが担当してきた番組を並べると、ラジオ好きな方ならピンとくるものが多いはずです。
高田文夫のラジオビバリー昼ズ、伊集院光のOh!デカナイト、猿岩石のオールナイトニッポン、水樹奈々 スマイルギャング、(有)チェリーベルなど。
1996年12月には、当時ニッポン放送のアナウンサーだった山岡和美さんと結婚しています。
なお結婚時期については1998年と書いている資料もあり、ここは食い違いがあります。
息子が明かした父の意外な厳しさ
手帳のエピソードだけを読むと優しい父親像に思えますが、別の顔も伝えられています。
2002年、健太郎さんが父親から家庭内暴力を受けていたことを公表した、という話です。
とくに食事のマナーには非常に厳しく、手が出ることもあったとされています。
満腹のときに勧められたチーズを断って激怒された、怒るとちゃぶ台をひっくり返すこともあった、といった具体的な話も伝わっています。
ただし、この話の出どころは1つのサイトのみで、公式な発表や大手メディアの報道としては確認できませんでした。
そのまま事実として受け取るのではなく、そういう話が流布しているという段階で見ておくのが安全だと思います。
妻は画家として現在も活動している
渥美清さんの妻は正子さん、旧姓は竹中さんです。
神奈川県茅ヶ崎市の出身で、Wikipediaでも職業は画家と紹介されています。
60歳頃から本格的に創作を始めたとされ、ウッドバーニングという技法の作家として活動してきました。
電熱ペンで木材を焦がして絵を描いていく技法ですね。
大阪を拠点に展示をしてきたと伝えられています。
渥美清の妻という肩書きを出さずに作品だけで発表しているそうで、夫が守り続けた「表に出ない」という姿勢を、亡くなったあとも続けているように見えます。
正子さんの写真が確認できるのは、結婚式とお別れの会の2枚だけだといわれています。
出会いと出雲大社での結婚式
2人が結婚したのは1969年3月17日。
場所は島根県の出雲大社で、式は内々に行われました。
その5日後にホテルニューオータニで披露宴が開かれています。
芸能関係で出席したのは関敬六さんと谷幹一さんだけ、司会はTBSの杉山真太郎さんでした。
取材陣はほぼシャットアウトだったといいます。
友人代表として招かれた芸能記者の鬼沢慶一さんは、渥美さんが亡くなるまでこのことを一切公表しませんでした。
ちなみに渥美さんは女優の新珠三千代さんの熱狂的なファンを公言していたため、結婚に際して「新珠三千代さんごめんなさい」というコメントを出しています。
……こういうところは、やっぱり寅さんですよね。
自宅は碑文谷で住所を知る人はいなかった
渥美さんの自宅は碑文谷にあったとされています。
ただ先ほど触れたとおり、その住所を知っている人はほとんどいませんでした。
山田洋次監督が渥美さんの自宅を訪れたのは、亡くなったあとが初めてだったんです。
訃報の連絡が山田監督のもとに届いたのは1996年8月6日の夜。
松竹宣伝部の担当者と2人で自宅へ駆けつけたときには、葬儀はすでに終わり、遺体は荼毘に付されて骨壺に納められていました。
これは渥美さんの遺言どおりの流れでした。
役者である以上、衰弱しきった姿を関係者に見せるわけにはいかない。
葬儀は身内だけの家族葬にすること、戒名はつけないこと、危篤のときも関係者を呼ばず家族だけで看取ること、訃報は火葬のあとに知らせること。
そして、騒ぎになったときは長男の健太郎さんひとりで対応すること。
自分が死んだあとの家族の露出まで、渥美さんは先回りして決めていたわけです。
死因は転移性肺がんだった
渥美清さんが亡くなったのは1996年8月4日、午後5時10分。
場所は文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院で、死因は転移性肺がん、68歳でした。
経緯をたどると、1991年に肝臓がんが見つかっています。
その後1994年に肺へ転移しました。
それでも渥美さんは撮影を続け、シリーズ最後の2作を撮り終えています。
闘病の事実は家族と一部の関係者以外にはほとんど知らされていませんでした。
亡くなる1週間ほど前に「呼吸が苦しい」と家族へ訴えて手術を受けましたが、すでに手遅れだったといいます。
訃報が松竹から公表されたのは、3日後の8月7日でした。
病を隠したまま寅さんを演じ切った、というのがこの人の最期です。
年収や遺産の額は公表されていない
渥美清さんの収入や遺産額を知りたいという声も多いようです。
ただ、こちらははっきりしています。
具体的な遺産額が公表された事実はありません。
ネット上には金額を挙げている記事もありますが、いずれも根拠が示されていない憶測です。
生前のギャラについても、公式に発表された数字は確認できませんでした。
あれだけ私生活を隠し通した人ですから、お金の話が外に出ていないのはむしろ当然かなという気もします。
金額を断言している情報を見かけても、一度立ち止まって出どころを確かめたほうがよさそうです。
渥美清の娘のまとめ
- 渥美清の子供は長男と長女の2人で、娘は長女ひとり
- 長女の名前は幸恵、読みは「ゆきえ」とする資料があるが確定していない
- 長女の生年・学歴・職業はいずれも公表されていない
- 長男は田所健太郎で1971年7月8日生まれのフリーラジオディレクター
- 渥美清は「寅さん」のイメージを守るため私生活を徹底的に秘匿していた
- 結婚と子供の存在が世間に知られたのは死後
- 子供たちには「文章を書く仕事をしている」と伝えていたとされる
- 亡くなったあとに肉筆の書き込みがある手帳が見つかり週刊誌が報じた
- 手帳には長女が幼い頃に玄関の石だたみで転んだ思い出が書かれていた
- そのメモには転ぶ様子を描いたイラストが添えられていたとされる
- ダイアリーの3月10日の欄に「幸恵 誕」と記されていたが日付の解釈は資料間で食い違う
- 家族も近づけなかった代官山の部屋に長女だけは通っていたという関係者証言がある
- 手帳の最後には「正子健康が一番だぞ 健太郎 幸恵も頑張れ」と書かれていた
- 片桐はいりが隠し子という噂や長女が声優という説に裏づけはない
- 妻の正子は画家で、渥美清の名を出さずに作品を発表している

