竹脇無我の娘は2人とも芸能界の外!長女と次女が選んだ仕事とは

竹脇無我の娘は2人とも芸能界の外!長女と次女が選んだ仕事とは

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竹脇無我さんの娘について調べていると、2人いるという話は出てくるのに、その先がなかなか見つからないんですよね。

実はお二人とも芸能界には入らず、それぞれ別の分野で名前を出して働いていて、自分の言葉で発信もしています。

亡くなる2日前に、娘の名前をつけた2本の桜が季節外れに花をつけた——そんな話まで残っているので、最後まで読んでみてください。

この記事を読むとわかること
・竹脇無我の娘が2人で、それぞれ今どんな仕事をしているのか
・長女・竹脇友加と次女・竹脇麻衣の経歴と、父と共通する青山学院のつながり
・8年のうつ病闘病を支えた娘の存在と、最期に病室でそろった4人のこと

竹脇無我の娘は2人・長女と次女の現在

竹脇無我さんには娘さんが2人いて、どちらも芸能界ではない道を歩んでいます。

ここでは、お二人がご自身で表に出している情報をもとに、今どんな仕事をしているのかと、父との関係が見えるエピソードをまとめていきます。

娘は2人とも女性で姉妹

まず人数のところから整理しますね。

竹脇無我さんのお子さんは娘さん2人だけで、息子さんはいません。

これはWikipediaだけでなく、日刊スポーツが2011年8月23日に出した密葬の記事、週刊ポストの葬儀ルポ、さらにうつ病闘病記を紹介した山梨県立中央病院の書評まで、別々のソースがそろって「2人の娘」と書いているので、まず動かないところだと思っていいです。

ご本人たちの言葉でも裏が取れています。

姉の竹脇友加さんは2022年のインタビューで、大学のラグビー部で男子部員が平気で裸で歩き回っていたのに驚いた話をしながら「私は女きょうだいで育ったので」と語っていました。

つまり男兄弟がいない家庭だったことを、娘さん本人が話しているわけですね。

では、どちらが姉でどちらが妹なのか。

ここは公式プロフィールに「長女」「次女」という書き方が見つからないので、少し慎重に見ていく必要があります。

手がかりは3つあります。

1つは、妹にあたる竹脇麻衣さんが朝日新聞社のペットメディアsippoで連載している「竹脇家の毛むくじゃら日記」に、「外出するとなぜか猫に出会い引き取ってくる姉」という回があること。

2つめは、竹脇友加さんの公式プロフィールに1971年生まれと明記されていること。

3つめは、絵本を紹介した読者ブログが「竹脇麻衣さんのお姉さんの友加さん」「妹様の麻衣さん」と繰り返し書いていることです。

一次資料に長女・次女の表記はありませんが、この3点が同じ向きを指しているので、友加さんが姉・麻衣さんが妹と見てよさそうです。

項目 竹脇友加さん 竹脇麻衣さん
姉妹の順 姉(長女と見られる) 妹(次女と見られる)
生まれ 1971年・東京都出身 1973年生まれとされる(公式記載なし)
学校 幼稚園から大学まで青山学院 青山学院大学法学部を卒業
現在の仕事 女性化粧品のPRマネージャー イラストレーター
公の発信 RCCA(ラグビー団体)のメンバーとして登場 sippoで連載、絵本の絵を担当

なお、お二人とも芸能活動はしていない一般の方です。

この記事でも、ご本人が公式サイトやメディアで自分から明らかにしている範囲だけを扱います。

長女・竹脇友加は化粧品PRのマネージャー

姉の竹脇友加さんについては、一般社団法人ラグビーコミュニティークラブ(RCCA)の公式サイトに、かなりしっかりしたプロフィールが載っています。

1971年生まれ、東京都出身。幼稚園から大学まで青山学院で過ごし、現在は女性化粧品のピーアールを司るマネージャーという紹介で、そこに「父は俳優の故 竹脇無我 氏」とはっきり書かれています。

つまり父の名前を隠していないんですね。

そのうえで芸能の世界ではなく、美容・化粧品の広報という別の分野で仕事をしている、という形です。

ラグビーとの縁も面白いところです。

大学では体育会ラグビー部の女子マネージャーを4年間務めていました。

雨でも風でも選手と同じグラウンドに立ち、練習が終われば洗濯や事務作業までこなす、かなりハードな4年間だったそうです。

きっかけを聞かれて、友加さんは両親がそろって体育会系だったと話しています。

ただし競技はラグビーではなく、ヨットでした。

ここ、ちょっと引っかかりませんか。

竹脇家でヨットといえば、無我さんの長兄・竹脇義果さんが青山学院大学でヨット部を立ち上げ、のちに視覚障害者セーリングの協会まで設立した人です。

竹脇家とヨットの結びつきが、娘さんの世代の話にも顔を出しているわけですね。

母からは「大学では体育会に入って規律正しく過ごすように」と言われたそうで、自分でプレーする気はなかったので、小学生のころから身近だったラグビーのマネージャーを選んだと語っています。

卒業から約30年後、当時の後輩たちから突然連絡が来ます。

2020年、ラグビーを地域コミュニティに広げるRCCAという団体の構想を聞かされ、そこに参画することになりました。

「相手を間違ってませんか」と返したという反応が、なんだか正直で好きです。

今は女子マネージャー時代のネットワークを生かして、子ども連れや女性の目線でイベントを組み立てる役回りを担っていると紹介されています。

ちなみに2019年のワールドカップは自宅リビングで立って観戦したそうで、理由は「マネージャー時代の習性で、試合を座って観ていると落ち着かないの」。

ビールを飲みながら観たのかと聞かれると「飲みませんよ! 選手がプレーしているのに」と答えていて、30年前の姿勢がそのまま残っているのが伝わってきます。

父娘でテレビ出演した2009年の番組

友加さんは、父と一緒にテレビに出たことがあります。

2009年4月30日、テレビ東京の「レディス4」で放送された「父娘で母校へ… 千駄ヶ谷〜青山 思い出散歩」という回です。

無我さんも青山学院中等部・高等部から青山学院大学法学部へ進んだ人なので、親子そろっての母校巡りという企画ですね。

同じ2009年には、Yahoo!知恵袋に「今レディース4でやってる竹脇無我の娘さんの名前を教えて下さい」という質問が投稿され、「竹脇無我さんの娘さんは友加さんです」という回答がついています。

娘さんの名前が世に知られたきっかけは、この父娘そろってのテレビ出演だったようです。

この放送は無我さんが亡くなる2年前のこと。

うつ病の長い闘病を終えて復帰した時期の、穏やかな親子の姿だったと考えると、ちょっと見てみたくなりますよね。

父の最期を語った雑誌インタビュー

もう一つ、父と娘の関係がはっきり分かる記録があります。

2012年、竹脇友加さんの名前で出た雑誌インタビューです。

タイトルは「愛娘が父・竹脇無我の最期を語る 眠る顔はとても穏やかで、舞台のワンシーンのようでした」。

学術データベースのCiNiiに、著者を竹脇友加さんとして書誌が残っています。

父が亡くなった翌年に、娘さんが自分の言葉で最期を語っていたわけですね。

「舞台のワンシーンのよう」という表現を娘さんが選んでいるところに、役者の父を持った人らしさを感じます。

京都で生まれた長女と加藤剛

長女の誕生についても、ちょっと不思議な話が残っています。

俳優の加藤剛さんが書いた追悼文によると、京都での撮影中に無我さんの長女が生まれました。

ところが加藤さんの宿舎が病院のすぐ近くだったため、父である無我さんより先に、加藤剛さんが病院に駆けつけてしまったそうです。

父親が自分の子の誕生に一番で立ち会えなかった、というのは俳優という仕事の厳しさそのものですね。

この「京都で生まれた」という点については、絵本を紹介した読者ブログにも、雑誌記事からの引用として「友加さんは京都・下鴨神社の近くの病院で誕生した」という記述が出てきます。

加藤剛さんの追悼文が語る長女と、友加さんが京都生まれだという二次情報が同じ方向を指しているので、長女=友加さんという見方を後ろから支える材料にはなりそうです。

ただし下鴨神社の話は個人ブログ経由の情報なので、あくまで参考という扱いにしておきます。

次女・竹脇麻衣はイラストレーター

妹の竹脇麻衣さんは、絵の仕事をしている方です。

朝日新聞社のsippoに掲載されている著者プロフィールには、青山学院大学法学部を卒業後、セツ・モードセミナーに入学し、在学中からイラストレーターとして活動を始めたとあります。

ここ、気づきましたか。

青山学院大学法学部というのは、父・竹脇無我さんが卒業したのとまったく同じ学部です。

父と同じ学部を出たあと、法律の道にも芸能の道にも行かず、絵の学校に入り直したわけですね。

セツ・モードセミナーは、画家の長沢節さんが開いた伝説的なイラストレーターの学校です。

チルチンびと広場の連載「私のセツ物語」に寄せた文章では、麻衣さんの在籍期間が1995年から2000年と記されています。

その文章には、ほぼ初対面だった長沢節さんに気を利かせたつもりの発言をして、笑顔で「おまえ、卑屈だねぇ!」と返されて涙をこらえた、という思い出が書かれています。

それまで体裁と建前で世渡りしてきた自分を反省した、と本人は振り返っていて、最後はセツ先生の言う「上品さ」をこれからも追究していくつもりだと結んでいます。

有名俳優の娘という肩書きとは関係のないところで、自分の技術と感覚を鍛えてきた人だというのが伝わる文章です。

作風は、ねこや動物たちをモチーフにした、ユーモアのあるのんびりした世界。

広告・雑誌・新聞などにイラストを提供していて、細密画のぬり絵本「花と猫とどうぶつの物語」(コスミック出版)も手がけています。

絵本「明日もいっしょにおきようね」の絵を担当

麻衣さんの名前が一番広く知られたのは、1冊の絵本かもしれません。

2012年4月、草思社から出た「明日もいっしょにおきようね─捨て猫、でかおのはなし」。

文は穴澤賢さん、絵を竹脇麻衣さん、アートディレクションを岡優太郎さんが担当しています。

保健所に収容された捨て猫「でかお」の身に起きた実話をもとにした絵本です。

父・無我さんが亡くなった2011年8月の、翌年春の刊行になります。

読者ブログによると、この本はお父様にも捧げられているそうです。

……なんだか、じんわりしますよね。

父を見送った娘が最初に世に出した絵本が、捨てられた猫が生き直す話だったというのは。

朝日新聞のsippoで続く猫の連載

麻衣さんは朝日新聞社のsippoで「竹脇家の毛むくじゃら日記」という連載を持っています。

紹介文は「イラストレーターの竹脇さんが育った奥深い住宅地。この場所で日々繰り広げられていた、たくさんの猫たちと犬たちの物語をつづります」。

つまり竹脇家で実際に暮らしていた猫と犬の記録なんですね。

2022年9月の回では、30年以上前に雨の日の空き地で鳴いていたグレーの子猫を保護し、プリンと名付けて育てた話を書いています。

思春期のころ、親とけんかしても学校で嫌なことがあっても、プリンがいてくれれば大丈夫だった。

泣けばいつまでもじっと側にいてくれた、と。

プリンが16歳のころに麻衣さんは実家を出て独立しますが、自転車で片道20分の距離だったので、毎晩実家に帰ってプリンと眠り、朝早く自分の家に戻って会社へ行く日が続いたそうです。

プリンは母に大事にされて22歳まで生きました。

それでも「私はプリンを置いて家を出た十字架をずっと背負っている」と書き、だから今も猫が優先順位の絶対1位で、帰宅時は乗り物に乗っていない時はいつも走っていると明かしています。

1匹の猫に対してここまで真っすぐなのは、正直すごいと思いました。

なお、この回のタイトルにある「お父さん」は、猫のプリンの性格を表した言葉で、父・竹脇無我さんのことではありません。

検索で見かけても勘違いしないようにしてくださいね。

姉妹がそろって通った青山学院

姉妹の経歴を並べると、共通点が1つ浮かび上がります。

姉の友加さんは幼稚園から大学まで青山学院、妹の麻衣さんは青山学院大学法学部の卒業。

そして父の無我さんも、青山学院中等部・高等部を経て青山学院大学法学部を出ています。

つまり父と次女が同じ大学・同じ学部で、長女も同じ学院で育っているわけです。

さらに伯父にあたる長兄の竹脇義果さんも青山学院大学で、在学中にヨット部を設立しています。

父方の兄弟から娘の世代まで、青山学院という一つの場所につながっている家なんですね。

前に触れた2009年のテレビ出演「父娘で母校へ… 千駄ヶ谷〜青山 思い出散歩」が成立したのも、父と娘で母校が共通していたからこそです。

竹脇家にとって青山学院は、単なる学歴ではなく家族の共通の場所だったと言っていいと思います。

うつ病の闘病を支えた娘のサポート

娘さんたちの存在が、竹脇無我さんの人生で一番大きく効いた場面はここだと思います。

無我さんは48歳ごろから、自殺の衝動を酒で抑えるようになり、心療内科でうつ病と診断されました。

抗うつ剤と眠剤でいったん軽快し、半年の入院を経て退院します。

ところが本人も周囲も病状をやや甘く見ていたため、再び落ち込みが激しくなり、糖尿病と高血圧症も併発して再入院することになりました。

この再入院のときです。

娘からのサポートと、森繁久彌さん・加藤剛さんから届いた手紙が心の励みとなり、治療に専念できたと記録されています。

ここ、読んでいて胸が詰まりました。

この時期、無我さんは前妻とすでに十数年の別居状態にあり、1997年には正式に離婚しています。

つまり夫婦としての関係が終わっていく時間と、うつ病の闘病の時間がほぼ重なっているんですね。

その中で娘さんたちが父のそばに残っていた、ということになります。

闘病は8年に及びました。

そのあと無我さんは俳優として復帰し、食生活も改め、自分の闘病体験を人に語れるところまで回復します。

闘病記「凄絶な生還 うつ病になってよかった」も出していて、今も病院の書評で紹介されているほどです。

父娘そろってのテレビ出演も、この回復の先にあった出来事でした。

娘さんの支えがなければ、復帰後の数年間そのものが存在しなかったかもしれません。

最期の枕元に付き添った2人の娘

2011年8月21日未明、竹脇無我さんは自宅で意識不明の状態で発見され、東京都大田区の東邦大学医療センター大森病院へ搬送されます。

同日14時5分、小脳出血により67歳で亡くなりました。

このときの病室の様子が、週刊ポストに記録されています。

臨終の際、同居していた女性が都内の教会の牧師を病室に呼びました。

その牧師の証言として、「枕元には2人のお嬢さんがついていました」と紹介されています。

娘さんたちは無我さんの頬やおでこを触り、ゆっくり父の死を納得していった様子だったそうです。

シミを取った顔は、往年の二枚目ぶりを思わせる綺麗なものだったとも書かれています。

Wikipediaも同じ場面を「前妻・娘2人・内妻に見守られながら息を引き取った」とまとめています。

離婚した前妻と、長く同居していた内縁の妻と、娘2人。

関係は複雑ですが、最期の瞬間に父のそばにいたのは、この4人だったということです。

翌8月22日には日本基督教団・東京都民教会で密葬が行われ、近親者に加えて石井ふく子さん、長山藍子さん、関口宏さんらが列席しました。

日刊スポーツはこの密葬を伝える記事の中で、数年前から同居している女性がいたが2人の娘も家に出入りしていたという関係者の話を紹介しています。

別居や離婚を経ても、娘さんたちが実家から離れていなかったことが分かる一文ですね。

娘の名をつけた2本の桜が咲いた日

もう一つ、娘さんに関わる話でどうしても紹介したいエピソードがあります。

2011年10月5日、都内のホテルでお別れの会が開かれました。

発起人は小泉純一郎元首相と加藤剛さんら、出席者は約300人という規模でした。

その場で加藤剛さんが読んだ弔辞の中に、こんな話が出てきます。

無我さんが、2人の娘の名前をつけて苗木から育てていた2本の桜の木があり、その2本が亡くなる2日前に花をつけていたというのです。

桜が咲くのは普通なら春ですから、8月に花をつけたのは季節外れの出来事です。

……これは、思わず涙が出そうになるエピソードでした。

娘の名前を木につけて苗から育てていた、という事実だけでも、この人が娘さんをどう思っていたかが伝わってきます。

ここで注意しておきたいのは、加藤剛さんの弔辞でもWikipediaの記述でも、2人の娘の名前そのものは明かされていないという点です。

桜の木の話は語られても、名前は出さない。

娘さんたちが一般の立場で生きていることに、周囲がきちんと配慮していたということだと思います。

娘がいるから結婚はしないと語った晩年

竹脇無我さんは1997年に離婚したあと、再婚していません。

晩年は内縁の妻と同居していましたが、籍は入れませんでした。

その理由について、本人の言葉が残っています。

週刊ポストが近隣住民の証言として伝えたもので、「娘がいるから結婚はしない」と竹脇さんは話していましたというものです。

同居していた女性は40代くらいで、引っ越しの際も彼女の名義で家を借りたらしいとも書かれています。

しっかりした女性で、葬儀のときもずっと涙をためながら、取り乱すことなく参列者にお礼の挨拶をしていたそうです。

この「娘がいるから」という一言、どう受け取りますか。

近隣住民の証言という形で伝わった一つのソースだけの話なので、発言の細かいニュアンスまでは分かりません。

ただ、事実として残っているのは、離婚から亡くなるまでの14年間、新しい籍を作らなかったということです。

そして娘さんたちは、その間も家に出入りしていました。

再婚しなかった選択の中心に娘さんたちがいた、と本人が周囲に話していた点は、娘を調べている人にとって一番大事な事実かもしれません。

竹脇無我の娘を調べる人向けの関連情報

娘さんのことを調べていると、どうしても前妻や内縁の妻、死因といった周辺の話も気になってきますよね。

ここからは、竹脇無我さんの家族関係と最期について、あわせて確認しておきたい情報をまとめます。

前妻との結婚は1970年・離婚は1997年

娘さんたちの母にあたるのが、竹脇無我さんの前妻です。

1970年に結婚して2人の娘が生まれ、十数年の別居生活を経て1997年に離婚しています。

結婚生活は法的には27年間ということになりますが、実際に同じ家で暮らしていた期間はその半分ほどだったわけですね。

前妻の名前については、「雅美」さんと書いている記事が1つありますが、その記事は出典を示しておらず、WikipediaにもNEWSポストセブンにも名前は出てきません。

一般の方ですから、ここは名前を確定させない扱いにしておくのが妥当でしょう。

別居に至った時期については、1970年代後半から80年代にかけて、十朱幸代さんや土田早苗さんとの交際が週刊誌にたびたび報じられたという記録が残っています。

当時の無我さんは「理想の夫ナンバーワン」と呼ばれていた人でもあり、外から見えるイメージと実際の生活のギャップに悩んでいたとも記されています。

ただし、報道と別居・離婚をつなげて原因だと断定している公式の説明はありません。

別居の時期と報道の時期が重なっているのは確かですが、そこから先は推測の域になります。

なお、前妻は離婚後も完全に縁が切れたわけではないようです。

無我さんが亡くなるとき、前妻も病室で見送った4人のうちの1人として記録されています。

晩年に同居していた内縁の妻

離婚後、竹脇無我さんは数年にわたって女性と同居していました。

籍を入れていないため、記録では「内縁の妻」と書かれる立場です。

週刊ポストが近隣住民の話として伝えているのは、この女性が40代くらいで、引っ越しのときも彼女の名義で家を借りていたらしいという点。

そして本人が「娘がいるから結婚はしない」と話していたという点です。

臨終の場面では、この女性が都内の教会の牧師を病室に呼んでいます。

Wikipediaも、前妻・娘2人とならべて内妻が最期に立ち会ったと記しています。

離婚した前妻、一緒に暮らしていた内縁の妻、そして娘2人が同じ病室にそろったというのが、竹脇無我さんの最期でした。

娘さんたちとこの女性の関係については、日刊スポーツが「数年前から同居している女性がいたが、2人の娘も家に出入りしていた」と書いているのが唯一の手がかりです。

娘さんたちが実家を避けていたわけではないことは、この一文から分かります。

死因は小脳出血での急死

死因についても整理しておきますね。

2011年8月21日未明に自宅内で意識不明の状態で発見され、搬送先の病院で同日14時5分に小脳出血により死去。67歳でした。

搬送先は東京都大田区の東邦大学医療センター大森病院で、集中治療室で治療が続けられましたが、脳幹出血の症状があったと報じられています。

週刊ポストも「小脳出血による急死だった」と書いていて、複数のソースで一致しています。

うつ病闘病記を紹介した山梨県立中央病院の書評では「脳出血で67歳の生涯を終えた」と、やや広い言い方になっていますが、内容が矛盾しているわけではありません。

ここで切ないのは、亡くなる直前の状況です。

糖尿病を抱えてはいましたが、白内障の手術のために酒を断ち、本格復帰に向けて体調を整えていた時期でした。

翌2012年1月の明治座公演「女たちの忠臣蔵」への出演も決まっていて、友人にはその舞台の話を楽しそうに語っていたそうです。

体調を整え、次の舞台も決まったところでの急死だったわけです。

もう一つ背景として挙げられているのが、2009年に亡くなった森繁久彌さんの死です。

無我さんは森繁さんを「オヤジ」と呼んで慕っていて、その死で精神的なショックを受け、一度やめていた飲酒と喫煙を再開し、高血圧症の症状が再び出たと記録されています。

家族構成は父・2人の兄と娘2人

竹脇無我さんの家族構成を、世代をまたいで整理しておきます。

関係 名前 主な情報
父 竹脇昌作 元NHKアナウンサー。1959年11月9日に49歳で死去
長兄 竹脇義果 1940年生まれ。元ラジオ関東アナウンサー。のちに視覚障害
次兄 竹脇真理 1942年生まれ。脳腫瘍のため18歳で死去
本人 竹脇無我 1944年2月17日生まれ。三男。2011年8月21日に67歳で死去
娘 竹脇友加 1971年生まれ。化粧品PRのマネージャー
娘 竹脇麻衣 イラストレーター。絵本・連載を手がける

無我さんは6人きょうだいの三男にあたります。

名前の由来も少し変わっていて、父は当初「宇宙」と名付ける予定だったそうですが、母の反対で「無我」になったと伝わっています。

長兄の義果さんは1982年、42歳で失明しアナウンサーを続けられなくなりました。

その後は無我さんの個人事務所タケワキプロダクションの設立に協力し、マネージャーとして出演交渉に当たります。

1996年には日本視覚障害者セーリング協会を設立し、翌年の世界選手権で銅メダルを獲得しています。

六本木の貸しギャラリー「タケワキスタジオ」のオーナーでもありました。

次兄の真理さんは敬虔なクリスチャンで、麻布高校在学中の17歳で洗礼を受け、伝道者を志しましたが脳腫瘍を発病し18歳で亡くなっています。

闘病中の日記は「勇ましく高尚な生涯」として刊行されました。

父を自死で、次兄を18歳の病死で、長兄を視覚障害で失うという家族の歴史を背負って、無我さんは俳優をしていたわけです。

こうして並べると、うつ病と8年も向き合うことになった背景の重さも、少し違って見えてきますよね。

父親の竹脇昌作は元NHKアナウンサー

最後に、娘さんたちの祖父にあたる竹脇昌作さんについても触れておきます。

昌作さんはアナウンサー・ニュース映画解説者として知られた人で、森繁久彌さんとはNHKアナウンサー1期の同期生でした。

ラジオの「東京ダイヤル」で爆発的な人気を得て、その語り口は「竹脇節」「マダムキラーボイス」と呼ばれました。

森繁さんとは同期であると同時に、親友同士でもありました。

だから無我さんが森繁さんを「オヤジ」と呼んで慕ったのは、父の代からのつながりがあったからなんですね。

ところがこの人気は続きませんでした。

1959年3月の皇太子ご成婚の放送を最後に番組を降板して療養に入り、後任が好評を得たことで契約を打ち切られます。

税金の滞納で自宅の土地と電話が差し押さえられ、1959年11月9日、自宅の物置で首を吊って49歳で亡くなりました。

この翌年、1960年に無我さんは16歳で松竹大船撮影所と専属契約を結びます。

一家の経済難を立て直すためでした。

つまり竹脇無我さんが俳優になったきっかけは、憧れや夢ではなく、父を失った家を支えるためだったということです。

孫にあたる娘さん2人が、芸能ではなく化粧品PRとイラストレーターという道を選んだことを、この背景と並べて考えると、いろいろ思うところがありますね。

竹脇無我の娘のまとめ

  • 竹脇無我の子供は娘2人で、息子はいない
  • 娘2人の存在はWikipedia・日刊スポーツ・週刊ポストなど複数のソースで一致している
  • 長女と見られるのが竹脇友加で、1971年生まれ・東京都出身
  • 友加は幼稚園から大学まで青山学院で過ごした
  • 友加は大学の体育会ラグビー部で4年間女子マネージャーを務めた
  • 友加の現在の仕事は女性化粧品のPRを担うマネージャー
  • 2009年4月30日、テレビ東京「レディス4」に父娘そろって出演した
  • 2012年、友加の名前で父の最期を語った雑誌インタビューが出ている
  • 次女と見られるのが竹脇麻衣で、イラストレーターとして活動している
  • 麻衣は父と同じ青山学院大学法学部を卒業後、セツ・モードセミナーへ進んだ
  • 麻衣は絵本「明日もいっしょにおきようね」の絵を担当し、朝日新聞社のsippoで連載も持つ
  • うつ病で再入院した際、娘からのサポートが治療に専念する励みになったと記録されている
  • 2011年8月21日の臨終では、前妻・娘2人・内縁の妻の4人が病室で見送った
  • お別れの会では、2人の娘の名をつけて育てた2本の桜が死の2日前に咲いたと弔辞で語られた
  • 離婚後に再婚しなかった理由として「娘がいるから結婚はしない」と本人が語っていたとされる

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