昭和のドラマや映画で活躍した俳優・中山仁さんの妻が、実は元女優だったことをご存じでしょうか。
しかも義理の兄は、あの『天空の城ラピュタ』ムスカ役の寺田農さん。芸能一家どころか、実家は画家の家系でした。
この記事では、中山仁さんの妻・寺田史さんの人物像から、2人が出会った映画のこと、娘さんたちの現在までを丁寧にまとめていきますね。
・中山仁の妻・寺田史がどんな人物で、どんな作品に出ていたのか
・2人が結ばれた馴れ初めと、1968年の結婚から死別までの51年
・娘2人の職業と、息子がいるという噂が事実かどうか
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中山仁の妻は元女優の寺田史
昭和を代表する二枚目俳優として知られた中山仁さんですが、その妻がどんな人だったのかはあまり語られてきませんでした。
ここでは奥さんである寺田史さんの経歴から、2人の馴れ初め、そして娘さんたちのことまで、分かっていることを順番に整理していきますね。
妻・寺田史はどんな人物か
中山仁さんの妻は、元女優の寺田史(てらだ ふみ)さんです。
芸能一家の出身で、ご自身も1960年代に女優として映画に出演していました。
ただ、結婚後は表舞台での活動をほとんど行っておらず、テレビや雑誌のインタビューに登場することもまずありません。
ネット上を探しても、寺田史さんご本人について書かれた記事は驚くほど少ないんですよね。
夫の中山仁さんが『サインはV』の鬼コーチ役で全国区の知名度を得たあとも、寺田史さんが夫の隣で取材に応じたという記録は見当たりません。
つまり、寺田史さんは芸能界に籍を置いた経験を持ちながら、結婚後は徹底して家庭側に軸足を置いた人だったと考えられます。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 寺田史(てらだ ふみ) |
| 職業 | 元女優 |
| 家族 | 兄は俳優の寺田農、父は洋画家の寺田政明 |
| 夫 | 俳優の中山仁(1942年9月25日 – 2019年10月12日) |
| 子供 | 娘2人(女優・声優の中山玲、ピアニスト・歌手のari) |
| 結婚 | 1968年 |
寺田史の出演作品
寺田史さんの名前は、映画のデータベースにもきちんと残っています。
代表的なのが、中山仁さんと出会うきっかけになった1967年の松竹映画『激流』で、ここでは飛鳥翠という役を演じました。
さらに映画.comの記録によれば、その後も『実録ヒットマン 北海の虎 望郷』(2003年)で黒川ジョー役、『MAZE』(2006年)で吉井武役として名前が挙がっています。
ドラマでは『白い巨塔』への出演記録も残されていますよ。
ただしこれらの後年の出演は情報源が限られており、同姓同名の可能性まで含めて考えると断定は難しいところです。
結婚後にきっぱり引退した、というよりは、ごくたまに作品に顔を出す形で細く関わり続けていたのかもしれませんね。
実家は洋画家・寺田政明の一家
寺田史さんの家庭環境は、かなり特徴的です。
父親は洋画家の寺田政明さんで、戦前から戦後にかけて活動した画家として知られています。
寺田家は東京府東京市(現在の東京都)豊島区椎名町に暮らし、その後は板橋区常盤台に転居しました。
椎名町といえば、当時は画家やアーティストが集まっていた地域として名前が挙がる場所です。
兄の寺田農さんが語っているところによると、父・政明さんが新聞小説の挿絵を手がけていた関係で、自宅にはよく新聞記者が出入りし、作家の尾崎士郎さんなども時々訪ねてきていたそうです。
つまり寺田史さんは、絵と文章の人が日常的に出入りする家で育った人ということになります。
芸能界に進んだ兄妹が2人とも表現の仕事を選んだのは、この家の空気と無関係ではないでしょうね。
なんというか、家そのものが最初の稽古場だったような感じがします。
馴れ初めは映画『激流』での共演
2人が出会ったきっかけは、はっきりしています。
1967年の松竹映画『激流』での共演です。
この年の中山仁さんは、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いでした。
1966年に芸名を梶原仁から中山仁に改め、化粧品会社のポスターに起用されたことで一気に注目を集めます。
翌1967年には巨匠・五所平之助監督の松竹映画『宴』で主役に抜擢され、同じ年に『囁きのジョー』『花の宴』『智恵子抄』と立て続けに話題作へ出演しました。
エランドール賞の新人賞を受賞したのもこの年です。
『激流』はその怒涛の1年のなかで撮られた作品でした。
寺田史さんは飛鳥翠という役でこの現場に立っており、まだ20代半ばだった2人が同じセットで顔を合わせたことになります。
映画の現場で出会って結ばれるというのは、当時の映画俳優らしい馴れ初めですよね。
ちなみに、2人がどんなふうに惹かれ合ったのか、どちらから声をかけたのかといったエピソードは、公にはほとんど語られていません。
具体的な口説き文句や交際期間が伝わっていないのは、寺田史さんが結婚を機に取材の場から離れたことと表裏一体だと考えられます。
1968年に結婚し娘2人が誕生
共演の翌年、1968年に2人は結婚しました。
出会いから結婚まで、およそ1年というスピード感です。
中山仁さんにとって1968年は、私生活だけでなく仕事の面でも大きな節目の年でした。
この年、三島由紀夫さんが主宰した劇団「浪曼劇場」の創立に参加しているんです。
映画で人気が出た若手俳優が、あえて三島由紀夫の劇団に飛び込む。
そのタイミングで家庭を持ったわけですから、公私ともに勝負をかけた1年だったのかもしれません。
夫婦のあいだには娘が2人生まれました。
Wikipediaの記述では二子ありとされ、息子についての記載はどの資料にもありません。
そして2人は、2019年10月に中山仁さんが亡くなるまで、およそ51年にわたって夫婦であり続けました。
離婚や別居を報じた記事は確認できず、死別までひとつの家庭を保った形です。
娘は女優の中山玲と歌手のari
娘さん2人は、どちらも表現の世界に進みました。
1人は女優・声優の中山玲(なかやま れい)さん、もう1人はピアニスト・歌手のariさんです。
| 名前 | 生年月日 | 職業 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 中山玲 | 1971年2月21日 | 女優・声優 | 桐朋学園大学短期大学部芸術科演劇専攻、玉川大学文学部教育学科卒 |
| ari | 非公表 | ピアニスト・歌手 | 父とテレビ東京『レディス4』に親子出演 |
中山玲さんは東京都出身で、身長167cm、血液型はA型です。
デビューのきっかけも家族がらみで、父・中山仁さんとたむらプロの社長が友人だったことから紹介という形で同事務所に所属し、1992年のドラマ『ビーナスハイツ』で女優としてスタートを切っています。
その後は『天国までの百マイル』『SPACE BATTLESHIP ヤマト』『終の信託』といった映画に出演し、声優としては『ザ・ホワイトハウス』『クローザー』『マッドメン』などの吹き替えを担当しました。
姉妹の順番については、資料によって記述が食い違っています。
中山玲さんのWikipediaには姉はピアニスト・歌手のariと書かれている一方、allcinemaやYahoo!知恵袋の回答では中山玲さんを長女としているんですね。
どちらが姉なのかは資料が割れており、現時点で断定はできません。
父と娘の共演エピソード
この家族、親子で同じ画面に映っている記録がちゃんと残っています。
まず中山玲さんは、1995年のテレビ東京のドラマ『付き馬屋おえん事件帳3』におさよ役で出演し、村木鉄平役の父・中山仁さんと共演しました。
『付き馬屋おえん事件帳』シリーズは中山仁さんの代表作のひとつですから、娘にとっても意味の大きい現場だったはずです。
そしてariさんとは、テレビ東京の夕方の情報番組『レディス4』に親子で出演しています。
このときの企画タイトルが、役者の父と歌手の娘 中山仁&ariの絆、というものでした。
……絆、という言葉をわざわざ番組がタイトルに置いているあたり、仲の良さが伝わってきますよね。
母・寺田史さんが表に出ない分、娘さんたちが父と並ぶ形で家族の姿を見せていたのかもしれません。
義兄は俳優の寺田農
中山仁さんの結婚は、芸能界のなかに新しい親戚関係も作りました。
妻・寺田史さんの兄が、俳優の寺田農(てらだ みのり)さんだからです。
寺田農さんは1942年11月7日生まれ。
中山仁さんが1942年9月25日生まれですから、義理の兄弟でありながら、生まれた年は同じで、しかも誕生日はわずか1か月半しか離れていません。
これ、ちょっと面白い巡り合わせだと思いませんか。
同世代の俳優が、妻の兄と夫という関係になったわけです。
キャリアの出発点も似ています。
寺田農さんは1961年に文学座附属演劇研究所へ第一期生として入所し、同期には岸田森さん、橋爪功さん、樹木希林さんらがいました。
一方の中山仁さんは1964年に同じ文学座附属演劇研究所へ第4期生として入所しています。
同じ養成所の先輩後輩でもあったわけですね。
寺田農さんといえば、1968年の岡本喜八監督『肉弾』で毎日映画コンクール男優主演賞を受賞し、スタジオジブリ『天空の城ラピュタ』のムスカ大佐役の声で今も語り継がれる存在です。
なお、検索で中山仁の兄弟と調べる人が多いのですが、中山仁さん本人の実の兄弟についての記録は見当たらず、出てくるのはこの義兄・寺田農さんの話であることがほとんどです。
Yahoo!知恵袋でも義兄・寺田農(俳優)という形で回答されていました。
寺田農の死去
寺田農さんは、2024年3月14日未明に肺がんのため東京都内で亡くなりました。
81歳でした。
義弟である中山仁さんが2019年に亡くなってから、およそ4年半後のことです。
寺田家と中山家をつないでいた2人の俳優が、相次いで世を去った形になります。
正直、昭和のドラマを見て育った世代にはこたえるニュースでした。
夫婦に対する世間の声
中山仁さんの訃報が伝えられたのは、亡くなってから約1か月後の2019年11月11日でした。
このときサンスポは、妻は俳優・寺田農(76)の妹で元女優の寺田史さん、娘は女優の中山玲(48)、と家族構成をはっきり書いています。
大手スポーツ紙が家族を明記したことで、それまで表に出てこなかった奥さんの存在を初めて知った人も多かったようです。
ネット上では、二枚目俳優としての中山仁さんを懐かしむ声が中心でした。
『サインはV』の鬼コーチ、『ウルトラマン80』のUGMオオヤマ一樹キャップ、コンタックのCMでのコミカルな演技。
世代によって思い出す顔がまったく違うのも、この俳優さんらしいところです。
『ウルトラマン80』の関連では、いつもカッコ良く、少しおちゃめで頼りがいのある地球防衛軍の、という追悼コメントも紹介されていました。
妻・寺田史さんへの直接的な言及は少なかったものの、家族4人がそれぞれ表現の仕事に関わってきたことへの驚きの声が目立ちました。
夫は俳優、妻は元女優、娘は女優と歌手、義兄は俳優、そして妻の父は画家。
……こうして並べると、なかなかすごい一家ですよね。
中山仁の妻を調べる人向けの関連情報
中山仁さんの妻について調べている人は、あわせて息子の有無や死因、若い頃の姿についても検索していることが多いようです。
ここからは、そうした周辺の疑問をまとめて片づけていきますね。
息子がいるという噂の真偽
中山仁の息子、というキーワードで検索している人がかなりいます。
結論から書きますね。
中山仁さんに息子がいたことを示す資料は、どこにも見つかりませんでした。
Wikipediaは子供について二子ありとし、続けて娘の中山玲さんとariさんの2人だけを挙げています。
サンスポの訃報記事も、家族として妻と娘の名前しか出していません。
中山玲さんのWikipediaにも兄や弟の記載はなく、家族欄は父・母・姉の3人だけです。
複数の資料が一致して娘2人としており、息子の存在を示すソースがひとつも無いという状態ですね。
ではなぜ息子で検索されるのか。
考えられるのは、有名俳優には息子が跡を継いでいるケースが多いという先入観と、芸能人の家族をまとめる個人ブログのタイトルに息子という語が入りやすいことです。
実際、検索上位には中山仁に息子がいるの、というタイトルのページが並んでいましたが、そのページは現在削除されて404になっていました。
タイトルだけが検索結果に残り、疑問の形で流通し続けているという状態かもしれません。
死因は肺腺がんで77歳没
中山仁さんが亡くなったのは、2019年10月12日の午後5時25分です。
死因は肺腺がんでした。
亡くなった場所は東京都内の自宅で、享年77。
発表されたのは死去からおよそ1か月後の2019年11月11日で、スポーツ報知、サンスポ、デイリースポーツなどが一斉に報じています。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 没日 | 2019年10月12日 午後5時25分 |
| 死因 | 肺腺がん |
| 場所 | 東京都内の自宅 |
| 年齢 | 77歳(享年) |
| 発表日 | 2019年11月11日 |
活動期間は1965年から2019年まで。
つまり亡くなる年まで俳優として名前が残り続けた、54年のキャリアだったということになります。
病院ではなく自宅で最期を迎えたという点も、家族に囲まれた時間があったことを想像させますね。
なお、義兄の寺田農さんも2024年に肺がんで亡くなっています。
同じ系統の病名が続いたことに驚く人もいますが、両者に因果関係を示す情報はなく、あくまで別々の出来事として整理しておくべきでしょう。
若い頃は二枚目俳優として人気
いま中山仁さんを鬼コーチのイメージで覚えている人は多いと思いますが、若い頃はまったく違う売られ方をしていました。
デビューは1965年、フジテレビ系のドラマ『乱れる』です。
このとき南田洋子さんの相手役に抜擢され、梶原仁という芸名でスタートしました。
翌1966年に番組が終わるタイミングで芸名を中山仁に改め、化粧品会社のポスターに起用されたことが売り出しのきっかけになります。
彫りの深い顔立ちで、当時としてはかなり洗練された二枚目でした。
そこからの伸びが早いんですよ。
1966年に映画『ひき逃げ』でスクリーンデビュー、舞台『リュイ・ブラス』で舞台デビュー。
1967年には『宴』の主役に抜擢され、『囁きのジョー』では主演のジョー役、『花の宴』では滝廉太郎役を演じています。
そして1969年からのTBS『サインはV』で牧圭介コーチを演じたことで、二枚目俳優から一転して鬼コーチの代名詞になったわけです。
本人はのちに、『サインはV』の撮影が体育館ばかりだったため大ヒットの実感がなかったと語っています。
1973年に続編が作られ、同じ牧コーチ役で出演したとき、ようやく1作目の熱量に気づいたのだそうです。
歌手としての顔もありました。
テイチクと専属契約を結び、『亜矢子』『星の中のあいつ』『宴』『渚の恋人』といったシングルを1966年から1967年にかけてリリースしています。
趣味は釣り。
……こうして並べると、本当に何でもやった人だなと思います。
学歴は雪谷高校から早稲田大学
学歴についても整理しておきますね。
中山仁さんは東京都立雪谷高等学校を卒業したあと、早稲田大学第一政治経済学部政治学科に進学し、2年で中退しています。
中退した1964年に文学座附属演劇研究所へ第4期生として入所し、そこから俳優の道へ入りました。
政治経済学部から俳優へ、というのはかなり思い切った進路変更ですよね。
ちなみに義兄の寺田農さんも、早稲田大学第二政治経済学部を2年で中退して文学座に入っています。
早稲田の政経を中退して文学座へ、というルートまで一致しているのは、なかなかの偶然です。
義理の兄弟になる前から、2人はよく似た道を歩いていたことになりますね。
国籍は日本として各媒体が記載
中山仁の国籍、という検索も一定数あります。
これは出生地の記載が関係していると考えられます。
Wikipediaによれば、中山仁さんの出生地は中華民国・北京特別市とされているんです。
1942年生まれですから、当時の北京には日本人家庭が現地で暮らしているケースが珍しくありませんでした。
出身地はあくまで東京都で、都立雪谷高校から早稲田大学へ進んでいます。
タワーレコードオンラインのプロフィールも、1942年9月25日生まれ、北京出身の日本の俳優、東京都で育つ、という書き方です。
国籍を証明する公的資料は確認できませんが、各媒体はいずれも日本の俳優として記載しており、生まれた土地が北京だったことが検索のきっかけになっているとみられます。
なお、本名は中山仁平(なかやま じんぺい)。
読み方についても資料が割れていて、Wikipediaや事務所表記はなかやま じんですが、個人ブログのなかにはなかやまひとしと書いているものもありました。
中山仁の妻のまとめ
- 中山仁の妻は元女優の寺田史(てらだ ふみ)
- 2人の出会いは1967年の松竹映画『激流』での共演
- 寺田史は『激流』で飛鳥翠役を演じていた
- 結婚は共演の翌年にあたる1968年
- 結婚から中山仁が亡くなる2019年まで、およそ51年連れ添った
- 寺田史は結婚後ほとんど表舞台に出ず、本人の発言記録はほぼ残っていない
- 寺田史の父は洋画家の寺田政明
- 寺田家は豊島区椎名町から板橋区常盤台へ移った画家の一家
- 妻の兄は俳優の寺田農で、中山仁とは義理の兄弟にあたる
- 寺田農と中山仁はともに1942年生まれで、誕生日は1か月半しか違わない
- 2人のあいだには娘が2人おり、息子がいるという資料は確認できない
- 娘は女優・声優の中山玲とピアニスト・歌手のari
- 姉妹どちらが長女かは資料によって記述が割れている
- 中山玲は1995年『付き馬屋おえん事件帳3』で父と共演した
- 中山仁は2019年10月12日に肺腺がんのため77歳で死去した

