「日本のお母さん」と呼ばれた山岡久乃さんですが、ご本人の夫婦生活について知っている方は意外と少ないのではないでしょうか。
お相手は同じ舞台に立っていた俳優で、ふたりは劇団を一緒に立ち上げた仲間同士でした。
その結婚生活が15年で終わり、その後は生涯ひとりを選んだと知ると、テレビで見ていたあの穏やかな母親像とはまた違う横顔が見えてきます。
・山岡久乃の夫が誰で、いつ結婚しいつ離婚したのか
・夫婦に子供はいたのか、養女・泰子との関係
・ドラマで演じた夫婦役と、晩年までの歩み
山岡久乃の夫婦生活と元夫・森塚敏
まずは山岡久乃さんご本人の夫婦のお話から。お相手の名前から結婚と離婚の時期、子供のこと、そして離婚後の暮らしまで順番に見ていきましょう。
旦那は青年座を創立した俳優・森塚敏
山岡久乃さんの夫は、俳優で演出家の森塚敏さんです。
1926年10月1日生まれで、山岡さん(1926年8月27日生まれ)より2か月だけ年下という、ほぼ同年の相手でした。
森塚さんは1947年に劇団俳優座へ入団し、その後1954年に山岡さんたちとともに劇団青年座を創立しています。
つまりふたりは、夫婦になる前から同じ劇団を立ち上げた同志だったんですね。
森塚さんは青年座の座長を長く務め、西田敏行さんや津嘉山正種さん、高畑淳子さんといった俳優を育てた人物としても知られています。
映画では『ビルマの竪琴』(1956年)や『雨あがる』(2000年)、テレビでは朝の連続テレビ小説『本日も晴天なり』など、出演作も幅広いです。
山岡久乃さんの夫は一般人ではなく、劇団を率いる立場にあった同業の俳優だったということになります。
森塚敏のその後と没年
離婚後も森塚さんは青年座を支え続けました。
そして2006年6月19日、肺気腫のため東京都中野区の病院で亡くなっています。
79歳での逝去で、山岡さんが亡くなってから7年後のことでした。
馴れ初めは俳優座での出会い
ふたりの出会いの場は、戦後の演劇界を代表する劇団・俳優座だったと伝えられています。
山岡さんは1946年に俳優座へ入団し、森塚さんは1947年に入団しました。
同じ劇団で稽古を積み、舞台で顔を合わせるうちに距離が近づいていったという流れですね。
ただし、どちらが先に想いを寄せたのか、どんな言葉で交際が始まったのかといった細かなエピソードは、当時の資料としては出てきません。
この時代は俳優の私生活が今ほど公にされておらず、そこは記録に残らなかった部分です。
はっきり言えるのは、ふたりの縁が仕事場から始まり、そのまま新しい劇団の創立へつながっていったことです。
1954年の青年座創立という共同作業
1954年、山岡さんと森塚さんは仲間とともに劇団青年座を創立します。
結婚の2年前に、ふたりは新しい劇団を一から立ち上げるという大仕事を一緒にやっていたわけです。
……なんだか、恋愛より先に信頼関係ができていた感じがしますよね。
1956年に30歳同士で結婚
山岡久乃さんと森塚敏さんが結婚したのは1956年です。
ふたりとも当時30歳で、山岡さんのほうが2か月年上でした。
大正生まれの女性としては、30歳での結婚はかなり遅いほうにあたります。
当時は20代前半での結婚が一般的だった時代ですから、劇団の創立と俳優としての仕事を優先していたことがうかがえます。
結婚式の場所やプロポーズの言葉、指輪といった具体的な話は公表されていません。
ここも、当時の芸能人の結婚が今のように大きく報じられなかった事情が関係しているのでしょう。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 結婚した年 | 1956年 |
| 当時の年齢 | ふたりとも30歳 |
| 相手 | 森塚敏(俳優・演出家) |
| 出会い | 劇団俳優座 |
| 結婚時の所属 | ともに劇団青年座(1954年創立) |
15年の夫婦生活を経て1971年に離婚
結婚生活は15年続き、1971年に離婚しています。
1926年生まれの山岡さんにとって、44歳から45歳にかけての出来事でした。
そしてこの1971年という年は、山岡さんにとって別の大きな節目でもあります。
離婚と同じ年に、自ら創立した青年座を退団しているのです。
15年をともに過ごした相手と、17年かけて育てた劇団を、同じ年に離れたことになります。
公にされた説明はありませんが、時期がぴったり重なっている点だけは記録として残っています。
夫婦としての区切りと、劇団員としての区切りが同じ1971年に来たという事実は、山岡さんの経歴を見るうえで押さえておきたいところです。
離婚と同時期に広がっていたテレビでの活躍
興味深いのは、この時期に山岡さんの仕事が舞台からテレビへ大きく移っていることです。
1970年に始まったTBSのドラマ『ありがとう』で「日本のお母さん」として一気に知られるようになり、その翌年に離婚と退団が重なります。
舞台の劇団員から、全国のお母さん役へ。
時系列を並べると、生活のかたちそのものが入れ替わった時期だったと考えられます。
離婚の理由は公表されていない
気になるところだと思いますが、離婚の理由は本人からも元夫からも公表されていません。
当時は俳優の私生活が今ほどオープンではなく、離婚の経緯を語る場そのものが少なかった時代です。
ネット上には「子供がいなかったから」「俳優同士で生活のリズムが合わなかったから」といった見方も出ていますが、これらはいずれも後年に書かれた推測で、公式に確認されたものではありません。
山岡さん自身が理由を語った記録は残っていないため、この記事でも断定はしません。
つまり山岡久乃さんの離婚理由は、現在も公表されていないというのが実態です。
ひとつだけ確かなのは、離婚後も森塚さんは青年座に残り、山岡さんは劇団を離れてテレビと舞台の仕事へ進んだこと。
それぞれの活動の場が、離婚を境にきれいに分かれています。
夫婦に子供はいなかった
山岡久乃さんと森塚敏さんの間に、実子はいません。
15年の結婚生活のなかで子供は生まれず、山岡さんは実子を持たないまま生涯を終えています。
不妊治療をしていたかどうか、夫婦で子供についてどんな話をしていたかといった情報も残っていません。
ここも当時の報道のありかたを考えると、語られる機会がなかった部分だと思います。
ただ、山岡さんは仕事のうえでは何人もの「娘」を持ち続けた人でした。
『ありがとう』では水前寺清子さんの母を、『渡る世間は鬼ばかり』では5人の娘を持つ母を演じています。
実生活と役柄がここまで対照的なのは、正直、少し胸に来るものがあります。
実子はいないけれど、画面の中では日本中の「お母さん」だった——それが山岡さんの立ち位置でした。
離婚後は終世独身を通した
1971年の離婚から1999年に亡くなるまで、山岡久乃さんは再婚していません。
離婚後の約28年間、終世独身を通しています。
交際相手や再婚の噂も、確かな情報としては見当たりません。
この間の山岡さんは、俳優としての評価を積み上げ続けた時期でもあります。
1981年に文化庁芸術祭大賞、1990年に紫綬褒章、1992年に菊田一夫演劇賞、1997年には勲四等宝冠章を受章しています。
離婚後に受けたこれらの賞を並べると、家庭ではなく仕事に軸足を置いた後半生だったことが見えてきます。
山岡久乃の夫婦を調べる人向けの関連情報
ここからは、山岡久乃さんの夫婦について調べている方が続けて気になるところをまとめました。養女・泰子さんのこと、ドラマで演じた夫婦役、そして晩年までの流れです。
家族として迎えた養女・山岡泰子
山岡久乃さんには、山岡泰子さんという養女がいます。
泰子さんは山岡さんの妹の娘で、血のつながりでいえば伯母と姪の関係です。
養子縁組の打診があったのは1997年ごろ、山岡さんが70歳を過ぎてからのことでした。
そして1999年の葬儀では、泰子さんが喪主を務めています。
晩年の山岡さんを支えたのも泰子さんで、買い物や通院の付き添い、入退院時の手続きといった実務を担っていたと伝えられています。
実子がいない山岡さんにとって、姪であり養女である泰子さんが最も近い家族だったわけですね。
山岡久乃さんの家族関係は、離婚後は「妹の娘を養女に迎える」という形で結ばれ直されたと言えます。
養子縁組の理由をどう見るか
縁組の理由については、後継者を決めておいたほうが手続きが滞らないという説明が伝えられています。
時期を見ると、打診があったとされる1997年は、山岡さんが総胆管結石の手術を受けた年でもあります(手術は1997年3月とする情報があります)。
健康面の変化があった年に縁組の話が出ているという時間の並びからは、身の回りを整えておきたいという気持ちがあった可能性が考えられます。
ただしこれは公表された理由ではないため、あくまで時系列から推測できる範囲の話として受け取ってください。
ドラマ「渡る世間は鬼ばかり」で演じた夫婦
山岡久乃さんといえば、TBS『渡る世間は鬼ばかり』の岡倉節子役を思い出す方が多いはずです。
節子の夫は岡倉大吉で、会社員から板前を経て小料理屋「おかくら」の店主になる人物です。
節子は熊本県出身の設定で、弥生・五月・文子・葉子・長子という5人の娘を育て上げました。
躾に厳しく、物事をはっきり言う性格で、料理が得意。
普段は夫を立てながらも自分の意思は通し、娘たちが理不尽な扱いを受けたときには自ら乗り込んでいくこともある——そんな母親でした。
山岡さんの本人の夫婦生活とは正反対に、画面の中では大家族の妻であり母だったんですね。
節子役の降板と後任
山岡さんは第3シリーズを最後に、事実上この役を降りています。
第4シリーズでは節子がニューヨークに旅行中という設定になり、山岡さんは出演していません。
降板の理由については情報が分かれており、体調と年齢を考えた判断とする説明と、闘病を伏せておきたかったためとする説明の両方が出ています。
公式に一本化された説明はないため、ここも断定は避けておきます。
その後「おかくら」の2代目女将には、青山タキ役の野村昭子さんが入りました。
「ありがとう」で水前寺清子の母を演じた縁
山岡久乃さんの代表作として外せないのが、1970年に始まったTBSの『ありがとう』です。
山岡さんは全4シリーズで母親役を務めました。
| シリーズ | 放送期間 | 山岡久乃の役 |
|---|---|---|
| 第1(婦人警官編) | 1970年4月〜10月 | 四方勝(主人公・光の母) |
| 第2(看護婦編) | 1972年1月〜1973年1月 | 古山友(新の母) |
| 第3(魚屋編) | 1973年4月〜1974年4月 | 志村歌(愛の母) |
| 第4(カレー屋編) | 1974年5月〜1975年4月 | 三友文(三友家の妻であり母) |
第1シリーズで水前寺清子さんが演じた主人公・光の母が、「鬼のお勝」と呼ばれる四方勝でした。
第2シリーズの最高視聴率は56.3%で、民放ドラマ史上最高の数字として記録されています。
第2シリーズの古山友は戦後すぐに夫を亡くし、看護婦として女手ひとつで息子を育てた母。
第3シリーズの志村歌も、娘が3歳のころに夫を亡くし、魚屋「魚平」を切り盛りした母です。
夫のいない母をくり返し演じていたという並びは、いま振り返ると少し不思議な符合に見えますね。
水前寺清子さんとの母娘役から、山岡久乃さんの「日本のお母さん」という位置づけが始まったわけです。
娘役の女優たちと呼び合った「お母さん」
『ありがとう』から『渡る世間は鬼ばかり』まで、山岡久乃さんは20年以上にわたって母親役を演じ続けました。
共演した女優にとって、山岡さんは画面の外でも「お母さん」だったと伝えられています。
1999年に亡くなる直前には、親友だった池内淳子さんや、共演者の長山藍子さんが駆けつけたと伝えられています。
意識がはっきりしない状態でも「お母さん」という呼びかけに反応したという話も残っています(この場面については伝えている媒体が限られるため、そういう話がある、という受け取り方が正確です)。
……役柄として積み上げた「母」が、最後の場面まで続いていたことになります。
死因は胆管がんだった晩年
山岡久乃さんは1999年2月15日午後10時02分、神奈川県川崎市の病院で亡くなりました。
死因は胆管がんによる心不全で、72歳での逝去でした。
1997年3月に総胆管結石の手術を受けた際にがんが見つかったとされ、公表されたのは1998年12月です。
つまり発覚から公表まで、かなりの時間がありました。
この間、山岡さんは闘病を伏せていたため、周囲の見舞いを断ることもあったと伝えられています。
そのことから脚本家・橋田壽賀子さんとの「確執」が取り沙汰されたこともありましたが、これは事情を知らないまま報じられたものだったという見方が示されています。
葬儀の喪主は養女の泰子さんが務めました。
夫と別れてから約28年、実子は持たないまま、姪であり養女である泰子さんに見送られた最期でした。
山岡久乃の夫婦のまとめ
- 山岡久乃の夫は俳優・演出家の森塚敏
- 森塚敏は1926年10月1日生まれで、山岡久乃より2か月年下
- ふたりの出会いの場は劇団俳優座
- 1954年に仲間とともに劇団青年座を創立した同志だった
- 結婚は1956年、ふたりとも30歳のとき
- 大正生まれの女性としては遅い結婚にあたる
- 結婚生活は15年続き、1971年に離婚
- 離婚と同じ1971年に、山岡久乃は青年座を退団している
- 離婚の理由は本人からも元夫からも公表されていない
- 「子供がいなかったから」などの説はいずれも後年の推測
- 夫婦に実子はおらず、山岡久乃は実子を持たないまま生涯を終えた
- 離婚後は再婚せず、約28年にわたり終世独身を通した
- 晩年は妹の娘・山岡泰子を養女に迎え、1999年の葬儀では泰子が喪主を務めた
- ドラマでは『渡る世間は鬼ばかり』の岡倉節子役として、岡倉大吉の妻を演じた
- 『ありがとう』では水前寺清子の母などを演じ「日本のお母さん」と呼ばれた
- 1999年2月15日、胆管がんによる心不全のため72歳で死去

